他人の目が気になることの正体

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メンタル・マインド・カラダのお話

「他人の目が気になってしまいます・・・。」
「人にどう思われるか不安で怖いです・・・。」

私自身かなり改善されたからこそ生きやすくなったのもありますが、正直未だに内容によってはそうなることもありますし、今これを読んでくださっている多くの方が当てはまるのではないでしょうか。

同じような方と一緒に少しずつ克服したいと思いつつ、実体験や気づき・情報を発信していきますね。

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【脳のしくみ】“他人の目”が気になるのは人間なら当然

まずいきなりですが、生物学と脳のお話になります。

世界には様々な動物がいますが、わたしたち動物は生き延びるために、脳の扁桃体へんとうたいというところで物事を「快」「不快」の判断をしているそうです。

自然界で生きている動物は、例えばエサが多い場所を「快」、敵が居そうな場所を「不快」というように分けているのですね。

わたしたち人間は、普段過ごしていて他の動物に食べられることはほとんどありませんが、代わりに良好な人間関係を築いたり他者とのコミュニケーションを図ることで、生きていこうとしています。

人が群れたり集団を作ろうとするのも元はと言えば、自分を守り生き残れる確率を上げるためだったりするのです。
※ちなみに田舎や小さな町で暮らしていると、噂話が好きだったり、周りのことを気にしざるを得ない雰囲気ってありますよね。それらも人数が少ないが故に起きてしまうことだと思います。よそ者を受け付けない精神も、自分達のテリトリーや習慣が侵されないようにするためではないでしょうか・・・。

そんな中で人間が「快」「不快」の状況判断をする際、扁桃体へんとうたいは他者の表情に対して鋭敏に反応するようになっています。

そして喜怒哀楽の中でも“怒”の表情にいちばん敏感に反応するのだそうです。

ネガティブな反応や雰囲気を察知することで、『良くない状況』『なんかこのままでは危ない気がする』『まずい状態になりそうだ・・・』など認識して危険を回避したりしているのです。

これは私たちが意識せずとも、生き延びるために脳が行なってくれているのですね。

ということは、人は他人の目を気にすることで生存確立を上げているということになります。

気にし過ぎてしまう程度の問題は確かにありますが、気になり過ぎてしまう時や誰かの表情が忘れられない時は、『守るために脳がやってくれている』『人間だから普通のことなんだ』と思い出してみてもいいかもしれません。

★ポイント★気になっているのは実は他人の目ではない

ところで他人の目を気にしてしまう皆さん、なぜ“他人の目”が気になるのでしょうか。

今までの人生で
・何かをしたことで誰かに笑われた
・バカにされた
・家族が傷つけられた
・失敗した
・叱責された etc…

など、自らがしたことで起きた“他人からされて不快だったこと”がベースにあるという方も多いと思います。

しかしそのような考えグセになってから、嫌われる覚悟で自分の言いたいこと、やりたいことを自由に行なってみたことはありますか?

やってみたことがある人はあまり多くないのではないでしょうか。

一方で『こんな風に思われないかな。』『これを言ったら嫌われるかな・・・。』ということを実際に行った場合、どのくらい本当にそのようなことが起きているでしょうか。

実はほとんど起きていないのです。

ということはその『人からどう見られるか』と気にしている内容を決めているのは、紛れもなく自分なのです。

つまりは、自分の想像上の『他人の目からこう見られるだろう』という自分のフィルターから見た世界なんですね。

しかしこれを『勝手に思い込んでしまっているのは自分なんだ』・・・と責める必要はありません。

実はこれも、発達の段階で本能的に人間に備わっているものなのです。

発達段階での自己概念の形成

少し専門的なお話になりますが、心理学で言う「自己概念」の中に「社会的自己」というものがあり、さらにアメリカの社会学者であるクーリー(Charles Horton Cooley)によれば、“他人の目に映る”という意味で「鏡映自己きょうえいじこ」というものがあるそうです。

これが先ほどの、自分の想像上の『他人の目からこう見られるだろう』という
自分のフィルターから見た世界自分が主観的に想像する自己像
ということになるのですね。

たったひとりで今まで生きてきたという人はいないでしょう。

友達や家族の多さに関わらず、少なくとも生まれてから今ここにいるまでの間に、他者と関わってきたことは紛れもない事実で、その社会の中で意識せずとも“自己”というものが作られているのです。

そしてその“鏡映自己”はこれまでの経験から作られたことにはなるのですが、本人にとってトラウマにもなり得るような出来事があれば、その後の認知や反応にも関わってきます。

もちろん社会の中で自己を築いていくのは、成長の段階で必要なことです。

「人を傷つけてはいけない。」「これはしない方がいい。」「こういうやり方が好ましい。」など少しずつ学び、共存するため様々な人が関わり合っているのです。

しかし前述の通り、不快な感情を示すことがきっかけで必要以上に「他人の目を気にしてしまう」のであれば、それが事実として起きる可能性は極めて低いのですね。

なぜならその心配事は他人が本当に思っているわけではなく、自分でそう思っているだけだからです。
※先ほど例として田舎で生活する上でのことを少し書きましたが、周囲のことを気にしなくてはやっていけないような環境もあるのもわかります。そのような所で実際に病んでしまう人もいるので可能であれば環境を変えることも有りですが、一度振り切って自由になってしまうと、周りも何も言わなくなることも多々ありますよ。

気にしていたのは他者ではなく“自分”の目「自分のことしか考えていなかったんだ」

とは言え最近、私も『まだまだ他人軸になっていたのだなぁ』と気付かされた出来事がありました。

少し前に3年半ぶりに出演させていただいたライブがあったのですが、久しぶりの生ライブは非常に反省点が多く猛烈に落ち込みました。

個人の気持ちとしては
・こんなの人にお見せできない
・こんなクオリティのものにお客様を呼んではいけない
・関係者にも申し訳ない

本番後に厳しめのお言葉を頂いたのも事実でしたし、関係者にも謝罪したり、歌をやめようかとも思いました。

しかしファンの方や知人から嬉しいコメントやDMをいただいたことで、『最初から土俵を降りるのは失礼だし、何より応援してくれている人がいるのに何をしてるんだ。』とハッとしました。

なぜあんなに勝手に自分で『人に見せられない』『ひどい内容になってしまった』と思っていたのか。

それは”ある意味自意識過剰”で(笑)
『完璧なステージをできない自分を見られたくない』
『音を外したと思われたくない』
『いつもはもっと上手く歌えるのに』など
自分のことしか考えていなかったのですね。

そう、他人の目を気にしていたようで本当に気にしていたのは、
勝手に自分のフィルターを通した『人目』自分の目を気にしていただけだったのです。

人目を気にしたところで、その人が本当にどう思っているかなんてわかりません。

人の目を気にしない方法の書籍も沢山出ていて、私は頭では理解できるけれどそんな簡単には実行できませんでした。

しかしこの出来事で、
他人がこう思うだろう=自分で決めつけていた勝手な思い込み
ということを実感しました。

結局のところ自分のことしか考えていないことに気づかされ、時には相手の気持ちを考えることが優しさなのかなと気付かされました。

『他人の目が怖い』と感じたときは、その後で
『自分がそう思っているだけかもしれない』と付け加えてみましょう。

私自身もまだうまくできませんが、相手のことを一番に考えられるようになったら他人の目なんて気にならなくなるのかもしれないですね。

例えばもし目の前で子どもが危険な目にさらされていたら、なりふりかまわず助けようとしますよね。

そんな状況の時に、『どうしよう。焦ってるのがダサいと思われないだろうか。』『大声を出したら恥ずかしいよなぁ。』なんて考えることは少ないはずでしょう。

愛を届けられるようになりたいと思いました♡✨

他人の目を気にする自分でいい

以前からいつも「まずはどんな自分も受け入れよう」と言っていますが、こちらも同じです。

確かに他人の目を気にしてしまうことで動けなかったり、自分の思う通りにできないことはあるので気にならなければ一番楽なのですが、『人目を気にしてばかり・・・』と思っているだけでは特に何も変わりませんし、それどころか自己否定につながることがあります。

そのように自分のネガティブな部分に目を向けるぐらいなのであれば、「そんな自分でもいいんだ」と認めてしまいましょう。

「自分を変えたい」という向上心は素晴らしいですが、自分を変えるのにいちばん手っ取り早く近道なのは、まず自分を受け入れ認めることです。

色んな記事でも同じことを綴っていますが、私自身生きづらさが緩和された全ての根底はそこにありました。

対人恐怖症の経験もあり歌のお仕事もしていることから、他人の目が本当に怖くてお休みを繰り返したこともあります。

コロナでライブが全てなくなり、SNSで発信・活動をせざるを得ない状況で心が折れてしまったこともあります。(私は生のLIVEは良いけどネット上の活動がどうしても苦手でした・・・)

そんな自分に嫌気がさし何度も何度も自分を責め、過去のトラウマになった原因を恨みました。

しかしそれでは何も進まず、ある時から向き合い方を変えてみたのです。        

『他人が怖い。それでもいい。その中でやりたいこと・できることをやればいい。』

そう思えたことで初めて動けるようになり、打開されたのです。

そんな自分を受け入れたくなくて否定し続けていたうちは、何もできませんでした。

そしてこのマイナス要素も受け入れることができるようになると、何か起きたとしてもフラットに考えられるようになりました。

起きた事実に対し「良い」「悪い」の観点がなくなってきたように感じます。

少しずつ、少しずつで良いので自分であることに誇りを持てるようになれば、きっと楽になっていきますよ。

私もある日突然変われたわけではありません。

自分でもわからないスピードで、ゆっくりゆっくり変わることができたのです。

そして今も発展途上で成長中です。

焦る必要はありません。一歩ずつ自分を取り戻し、人生を楽しめるようになっていきましょう。

どんな私でも、どんなあなたでも大丈夫。

なんだか変な締め方になってしまいましたが、本日もお読みいただきありがとうございました。

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